国際交流基金ニュースレター  日本語訳
(The Japan Foundation Newsletter - 2005年 vol.6)

この数年、中国のバイオリン、または「二胡」が日本の音楽愛好者の中で世代を越えてポピュラーになっています。優しくて、柔らかくて神秘的な音は、古代の中国を思わせ、日本に於ける発展は中国との間の文化的な架け橋としての役目も果たしています。

二胡奏者のシュウミンさんは中国 西安 で生まれて、最初は父親からこの伝統楽器を教わりました。(父親もプロの奏者)
1999年、彼女は西安音楽学院から学位を授与され、同年末に来日しました。日本では、九州国立博物館「2004年国際シンポジウム」をはじめ、多くの日本人のミュージシャンと共に、様々なコンサートに出演をしました。2001年以降、学習院大学の講師も務めています。

 

< 以下、インタビュー記事  >

  JF: あなたは日本と中国の両方で活動してきましたね。両国での活動に違いを感じますか?

Xiumin:はい。個人的には、聴衆の反応と感じ方は完全に異なっていると思っています。例えば、コンサート終盤の曲は、中国では必ずアップテンポでハッピーエンドで終わるべきです。何故なら、お客様は気持ちよく家に帰りたがっているからです。しかし、日本では、必ずしもそうではありません。コンサートの最後を静かでファンタスティックに締めくくると喜んで貰えます。この様なエンディングは中国ではきっと不評をかうでしょう。また、日本では多くの異なる楽器や音楽とのコラボレーションをするチャンスがあります。ジャズや、タンゴ、日本の伝統楽器・・・etc。これらの機会はとても貴重で、私を成長させてくれます。

JF: 二胡は最近、日本で非常にポピュラーになりました。これはなぜですか?

Xiumin: 数年前までコンサートを聴きに来るお客様は殆ど年上の人々でした。そして、蘇州夜曲のように昔の曲を望んでいた様に思います。ところが最近、聴衆は、より若い作曲家による作品に関心がある様です。それらの曲は、癒し系と呼ばれてリラックスに用いられます。多分これは二胡のピッチが女性の声と同じであるからでしょう。

■西安での子供時代 国の専門機関での生活とその後

JF: あなたはどの様にして二胡を始めましたか?

Xiumin: 私の父はプロの二胡奏者でした。母は劇俳優です。二人とも芸術団の一員としてシルクロード一帯を巡っていました。私はこの劇団メンバーの宿舎であるアパートで育ちました。だから、朝、目が覚めると、いつも誰かが楽器のチューニングをしていたり、歌を練習しているのが聴こえていました。
父は年に数回地方公演に出掛けるので、その間、私は一人で練習する事になります。けれど、いつも近所の誰かが楽器の調整を手伝ってくれるので困る事はありませんでした。このような環境で子供が楽器を覚えるのは当然の事でした。
しかし、父は私にプロの二胡奏者になって欲しくはありませんでした。奏者としての厳しさを知っていたからです。ただ、多くの子供に二胡を教えており、実際にプロ奏者も育てています。私はそんな父の生徒の一人でした。

JF: あなたはとにかくプロの音楽家になりたかったのですか?

Xiumin: いいえ。単にアパートのすべての子供が楽器を演奏していたので、私も二胡を学び始めました。放課後も毎日練習しました。私の父は非常に厳しい教師でした。前述のように、私にプロ奏者になる事を望んではいませんでしたが、他の生徒達への手前、厳しくしなければなりませんでした。だから、私は他の(同年代の)子供達と遊ぶ時間がなく、皆がどんな事に興味を持っているのか知りませんでした。何より、私はなぜそれほど一生懸命練習しなければならないかを理解していなかったので、二胡はちっともおもしろくありませんでした。
しかし、14歳の時に、私は全中国少年少女伝統楽器コンクールに申し込み、運良く銀賞を受けました、このため、父の同僚が私をプロの奏者にさせることを奨めたのです。更に、同時期の私には、国の専門機関に参加するチャンスがありました。

JF: そうしてあなたはプロになったのですね?

Xiumin: はい。この機関は常時、音楽とスポーツに才能を持つ子供を募集しており、育成を手掛けていました。ただ、従来(専門機関への)参加条件は18歳以上に限られていたのですが、当時私は14歳でした。そこで、私の為に「特例」が設けられました。私の両親はこれを非常に名誉に思い、参加を決めました。それに、施設での規律正しい生活は両親にとっても安心だったのでしょう。

JF: 専門機関での生活はいかがでしたか?

Xiumin: 私は、中国の多くの場所で演奏をしました。関係施設ばかりではなく、地方のコンサート・ホールで一般の人々を対象にして、シルクロード一帯を巡りました。今、当時を振り返ってみると、この時の体験は私にとって大変にプラスになったと思います。しかし、当時の私は、それが信じられないほど辛く感じられました。
先ず、規則によって3年間家へ帰ることが出来ませんでした! 思い出してみて下さい、私は僅か14歳だったのですよ。
それに、最も辛いのは正月の時期でした。恒例のコンサートでお祝いの演奏をするのですが、殆どのホールは適切な暖房設備を備えていませんでした。マイナス10度以下の環境で、衣装もとても薄かったので、正月にはいつも酷い風邪をひきました。その年も、例によって朝、トラックの荷台で病院に運ばれました。けれども、夜、私はいつもの様にステージに立っていました。

JF: そして、あなたは次に大学に進んだのですね?

Xiumin: はい、専門課程を終えるまで規定の5年間を過ごしました。その後、私は進路を悩みましたが、幸い卒業の年に進学システムの変更がありました。それまで、私達には施設に関連する学校に行くしか選択肢がありませんでした。しかし、この年から、普通の芸術と音楽の大学に進む道が新たに開けられたのです。私は本当に幸運でした。そこで、私は私の住む地域で唯一の音大である西安音楽学院を目指しました。
受験を控えた私は、うず高く本を積み上げて、本当に一生懸命勉強しました。本来なら高校で学ぶべき多くの内容を一気に取り戻すために。そして、運良く私は二胡コースの試験に合格しました。

JF: あなたが音楽大学に入ったと聞いて、ご両親は喜びましたか?

Xiumin: はい、そう思います。父は、私が望む道を認めると決めた様です。
実際、二胡コースはポピュラーなコースでしたので、私のグレードでは毎年100人を越える学生が受験をしていましたが、結局、私を含む3名だけが残りました。
試験をパスした私は勇んで大学に入学しました。けれども、正直に言うと、私は幼少の頃から二胡を演奏するのを一度も楽しんだことがありませんでした。それでも大学と大学院で私は卒業まで一生懸命練習しました。この機会を無駄にしたくなかったからです。

そうして迎えた卒業コンサートでの事です。私は客席の様子がいつもと違うことに気が付きました。この日、私が演奏するホールは完全な静寂に包まれていました。私は、人々が私の演奏に集中し、聴き入っているのを感じました。その時、はっきりと、自分が積み上げてきた音楽が人々の心を掴んだのだと判りました。この瞬間、初めて私は自らの演奏に大きな意義と喜びがある事に気付いたのです。

■二胡の歴史

JF: 二胡について説明してもらえますか?

Xiumin: その起源は正確には判っていませんが、伝えられるところによれば、唐代(紀元7-lO世紀)にまでさかのぼります。18世紀に初めて、歴史的な書物にその名が記録されています。二胡には2本の弦があり「二」は2弦を意味します。そして、「胡」は中国より西の地域(すなわちシルクロードの西端)を意味します。つまり、「二胡」は西から来た2弦楽器を意味します。この楽器のユニークな点の一つは弓が2本の弦の間に挿入されているということです。ボディーは空洞の箱に張られたニシキヘビの皮で作られています。2本の弦のピッチはバイオリンの中央2弦と同じです。

JF: 現代の中国の二胡音楽には革新者がいますか?

Xiumin: はい、劉天華と阿炳。 彼らは19世紀末に生まれて、現代の二胡音楽に最も大きな影響を与えました。劉天華は北京大学の教授で、二胡の社会的地位を引き上げた人物です。その当時、二胡は精巧な楽器であるとは考えられていませんでした。琵琶や琴などの楽器と異なり、皇帝の下で演奏されたこともありません。単に劇場作品のための伴奏楽器と考えられていました。しかし、劉天華は二胡にバイオリンのテクニックを採り入れ(彼はバイオリンの勉強をした)、二胡で深淵な人間らしい感情の表現を実現しました。また、楽曲中に中国伝統音楽を見事に反映して作曲をしました。
 他方、阿炳はアカデミックな環境ではなく、道教の聖職者の息子として成長しました。彼は驚くべき才能を持っていて、伝えられるところによれば、人間の声から犬の鳴き声まで、二胡でどんな音も表現することができたといいます。しかし、30代の時に失明をしてしまいます。おそらく、生活の乱れがたたったのだと思います。そのために寺からも追放をされてしまい、以後は大道芸人として生計を立てながら、二胡のために多くの楽曲を残しました。 二人は完全に異なるタイプの音楽家でしたが、彼らが居なければ、今日の様な二胡の発展はなかったでしょう。

■音楽を通じた文化交流

JF: あなたは日本で一流の二胡プレーヤーのひとりです、そして、多くのミュージシャンと共に活動をしてきました。これまでに最も深い感銘をした事柄は?

Xiumin: それは葉加瀬太郎さん(バイオリニスト)を挙げなければならないでしょう。 2003年に、私は彼と共にドラマのタイトル・ミュージック(「流転の王妃・最後の皇弟」)を演奏する機会がありました。テレビ朝日の45周年の記念に製作された特別な番組です。それは日本に来て以来、私がかかわった最も大きいプロジェクトでした。大きなオーケストラと共演するのも良い経験です。

JF: あなたは5年間以上日本に住んでいます。 あなたは日本社会をどう思いますか?

Xiumin: 非常に便利で安全であり、良い国だと思います。しかし、時々、隣人との密接な関係を保つ中国の暮らしを恋しく思い出す事があります。東京の建物では、私はだれが隣に住んでいるかを知りません。しかし、私が西安で成長した頃、人々は隣人から米、醤油あるいは塩を定期的に借りていました。私は東京でそのような密接な関係を見たことがありません。ただ、最近、小津安二郎監督の映画で、私の幼年期のアパートでの暮らしと同じ様な光景を観て驚きました。日本も中国に似ていたとわかりました。今後50年の間に、中国は日本が変化したようになるかもしれません。その事を思うと、私はほんの少し寂しく感じます。

JF: 折しも、日本と中国との政治上の関係はかなり張りつめていますが、あなたの音楽を通して日本人の人々に伝えたいメッセージがありますか?

Xiumin: 私の知る限り、政府指導者の意見と世間一般の人のそれは異なっています。勿論、一般の人達にもそれぞれの考え方がありますが、政府のそれとは違います。私のコンサートを聴きに来てくれる人達と生徒さん達は皆、この一般の人達です。これらの人達は純粋に二胡の音が好きです。二胡は思想や政治を越えて心に訴えるもの、普遍的なものの存在を教えてくれます。現在、日本で二胡がとてもポピュラーであるのはうれしい事です。二胡を介して、より多くの日本の人々が中国の文化に関心を寄せてくれる事を願っています。私は、個々のレベルでの文化交流によってこそ日中両国の良い関係が築いてゆかれる様に思います。